On the Model of "420,000 deaths"

 ホリデーシーズンで、かつ、ロックダウン真っ只中で、暇なので、自然とインターネットをみる時間が増えた。全然知らなかったんだけど、日本では、42万人が死ぬのという試算について、ずいぶん議論がなされていたようだ。ものすごく後れを取った話で、すでにいろいろな人が同じことを言っているような気もするけど、一応感想を書いてみる。

関連するツイートとかを見てみると、「予測」ではなくて「プロジェクション」だとかいった説明がなされている。とてもばからしい。こんなのだから、免疫学者は経済学者や非専門家につっこまれるのだろう。

説明を軽く読んでみると、コロナの終息までに日本で42万人の死者が出るというのは、再生産指数(コロナにかかった1人の人が何人にうつすかという数字)とコロナにかかって症状が悪化した人が死ぬ確率をもとに計算されているみたいだ。前者については、パンデミックの初期の推定値がずっと続くと仮定され、後者については、パンデミックの初期の中国の数字がずっと続くと仮定されているようだ。両方ともここで仮定された値より悪化することはないとすると、42万人というのは、「多少は根拠のあるパラーメーターの下での」最悪のシナリオを計算しているということになる。つまり、「政府がいろいろな対策を実施したり、コロナの治療方法が改善したり、人々の行動パターンが変化することを織り込んだうえでの(起こりうる)予測」ではなくて、「政府は何もしないし、人々も行動を変えないし、医療技術も進歩しないという極端な仮定の元での(非現実的な、ワーストケースの)予測」ということだ。そのように計算された数字であるので、実際の数字(厚生労働省によると今の時点で3,932人)が42万よりずっと少ないことは、モデルが間違っているとか、この計算をした人が無能だということを示すわけでは決してない。

そうはいってみたものの、この数字の出し方には問題があると思う。一番深刻なのは、このモデルがどのくらい間違っているかを確かめようがないという点だと思う。今の時点死者の数が4000人未満で済んでいるのを見て、人々はどう考えるだろうか?楽観的に考えるのであれば、「ああ、最悪の結果の死者42万人を避けることができてよかった。政府もみんなもいろいろな対策をしたおかげだろう。これからもいろいろ対策を続けていこう!」と皆考えてくれることであるが、おそらく、多くの人は、「なーんだ。42万人とか言っておいて、実際は4000人も死んでないじゃん。コロナって大したことないな。」と考えるのではないか。

言い方を変えると、モデルの検証のしようがないから、モデルの信頼性がどんどん損なわれていくのである。「42万人という数字は現実的なシナリオに基づく予測ではない」とだけいう代わりに、ある政策を実施した場合に42万人という数字がどのように変わるか、という(policy elasticity)のも計算し、現実的と思われるシナリオでは42万人ではなくてXX人です、というのを強調しなかったから(示していたのかもしれないが、全然広まらなかった)今のような状況になったのだろう。その一方、おそらくは、現実的なシナリオの仮定の下に死者数を予測していたら、大きく外れていた可能性が高いので、そうすると、予測をした人は信用されなくなり、みな彼のいうことを聞かなくなるだろうから、現実的なシナリオの下での死者数予測をしなかった、あるいは強調しなかった、ことは十分理解できる。

経済学的に書くなら、死者数が(一定の再生産指数、一定の死亡率)だけから計算される単純なモデルではなくて、(何もしなかった場合の再生産指数・死亡率、コロナに対処する医療技術、会社に行って仕事する人の割合、レストラン等の稼働率、大規模なイベントの人数の上限)のようないろいろなパラメーターに依存するモデルを作って、広めるべきだったと思う。そうすれば、政府がわけわかんない政策をいろいろ実施した時に、それがどのくらい感染者数や死亡者数を引き上げたかがわかるし、モデルの正しさがが検証可能になった。あるいは、モデルを敬座奥的にアップデートして改善することができた。経済学でよく言われている言葉だけれども、「間違っていることを検証できないモデルは、間違ってるモデルより役に立たない」、という話だ。

この話は、(ゼロ金利制約に引っかかっているときの)金融政策の効果の話と似ている。日本銀行が大規模な非伝統的金融政策を実施しなかったら、日本のGDPは20%下がっていた、みたいな話も(20%という数字は適当だけれども)、威勢はいいけどクリーンには検証のしようがない。

(現実には決して実現しない)シナリオの下での予測というのはとっても簡単で、間違っていることを証明しようもないから本人もリスクを負わずにセンセーショナルな数字を発表できるものであるから、あんまり信用するべきではないと思うし、信用されなくなくなっていくのはまっとうな方向性だと思う。大きな数字だったから人々を怖がらせて、コロナのダメージを小さくすることができたという議論もある。アメリカでもそういう議論がなされているのを聞いたことがあるが、そういうのは政府がすべきことであって、学者のすることではないと思う。

あと、なんだからわからないけど、この話に絡んで「ルーカス批判」に対する批判も目にした。「ルーカス批判」なんてコロナの文脈で経済学者の誰かが口にしたのであろうか。「ルーカス批判」について批判するのはかっこいいかもしれないけれども、ピントがずれていると思う。コロナについてある政策を実施したときに、家計や企業がその政策の効果を打ち消す方向で行う行動が、コロナの文脈で重要だろうか?個人的にはたいして重要ではないと思うし、そんなことを強調しているモデルも見覚えがない。

Neo-Fisher Effect or Standard Monetary Stimulus?

日本等において、金融緩和を実施しても、インフレ率は上がらず、景気(GDP)も大きく改善しているようには見えないことから、ネオ・フィッシャー効果を考えるべきではないかと主張している人たちがいる。

今回紹介するペーパーに倣ってちょっと整理をしてみる。

行からみると、1行目は一時的な(名目)政策金利引き上げの効果、2行目は永続的な政策金利引き上げの効果が示されている。列を見ると、1列目は、長期的なインフレ率・GDPへの効果、2列目は、短期的な効果を示している。

青いマスから見てみよう。一時的に政策金利を引き上げても、一時的という性質上、政策金利は元に戻すという想定なので、長期的には何の効果もない。

オレンジのマスは、いわゆるフィッシャー効果を表している。名目の政策金利を永続的に引き上げた場合、長期的には実体経済には影響はないと考えられるので、GDPや実質金利は影響を受けない。よって、長期的には名目金利は高いレベルに維持されるけれども、実質金利は前と同じなので、インフレ率は上昇しなければならない、というのが、フィッシャー方程式の意味するところなので、このような帰結はフィッシャー効果といわれる。

フィッシャー効果が(大まかに言って)成立しているというエビデンスとしてよく見られるのが、以下のようなグラフである。
一つ一つの青い点が国である。左側のグラフはデータがあった99か国すべて、右側のグラフはOECD諸国(いわゆる先進国)26か国を示している。X軸は、1989年から2012年の平均インフレ率、Y軸は同じ期間の名目金利である。どちらのグラフにおいても、青い点は大まかには45度線(グラフの中の斜めの線)に近い。つまり、23年間の平均インフレ率が1%高い国はその期間も名目金利も1%高いということであり、フィッシャー効果と整合的である。

黄色のマスが、いわゆる金融政策の普通の考え方である。一時的に政策金利を引き上げると、インフレ率はすぐには反応しないので(いわゆる価格の粘着性)、実質金利は上昇する。実質金利が上昇すると、企業が借り入れを行って投資するコストが高まるので企業は投資を控え、家計も実質金利が高まるので借り入れを減らしたり貯蓄を増やしたりする。それによって、今現在の消費は減ることになる。どっちの効果が大きいにしても、企業や家計の需要が減少するので、GDPもそれを反映して減少するというロジックだ。

最後に、緑色のマスが、ネオ・フィッシャー効果と呼ばれるものである。これは、政策金利の引き上げが永続的であれば、フィッシャー効果(オレンジのマス)が短期にも有効だという考え方である。フィッシャー効果と同じく、名目の政策金利は永続的に引き上げられ、かつ、実質金利が名目金利ほど大きく反応しないとすると、その差であるインフレ率は短期的であれ上昇するというものである。ただ、GDPにどのような影響を与えるかはよくわからない。

今日軽く紹介するペーパー("The Neo-Fisher Effect: Econometric Evidence from Empirical and Optimizing Models" by Martin Uribe)は、アメリカのデータを使って、ネオ・フィッシャー効果が存在するか、存在するとすればGDPへの影響はどのようなものか、を分析してみたものだ。著者は、VARとシンプルなニューケインジアン(NK)モデルの両方で、一時的な政策金利へのショックと永続な政策金利へのショックが存在するモデルをベイズ推定した。

著者によると、どちらのモデルでも結果は一緒だったので、説明としては簡単なVARを使って説明してみる。子のペーパーで使われたVARのモデルは、GDPとインフレ率と名目金利の3つの変数がVARで決まり、GDPとインフレ率に永続的なショックと一時的なショックがあるというものである。著者が推定したVARモデルが、ショックにどのように反応するかを見てみよう。
左側が永続的な金利へのショック、右が短期的な金利へのショック、上は名目金利とインフレ率の反応、下はGDPの反応を示している。右側からみていこう。名目金利が一時的に1%引き上げたとき(赤の点線を見ればわかるとおり、金利の引き上げは半年で終わって元の金利のレベルに戻る)、インフレ率は低下し、GDPも低下する。これはスタンダードな短期的な金融引き締め効果と同じである。

では、左側のグラフを見てみよう。名目金利ショックが永続的であった場合、名目金利は1%上がり、そのレベルで安定する(赤の点線)。ちょっと驚くべきことに、インフレ率もすぐに1%上のレベルに到達する。つまり、推定されたモデルによると、ネオ・フィッシャー効果が存在している(フィッシャー効果は短期的にも有効)ということになる。しかも、インフレ率の方が名目金利より強く反応している、つまり、実質金利はちょっと下がっているということだ。それと整合的に、名目金利は引き上げられたにもかかわらず、GDPは上がっている。つまり、政策金利を永続的に1%引き上げた場合、インフレ率もすぐに反応して約1%上昇し、GDPは短期的にではあるが0.5%上昇するのである(長期的にはもちろんGDPへの影響はない)。

これまでの分析はアメリカのデータを使ってなされているけれども、ペーパーでは日本のデータの分析も行われている。日本のデータを使った結果を下に示しておく。
短期的な金利引き上げの効果は代替アメリカと同じで、名目利子率はすぐに上がるものの2.5年くらいで元に戻る。インフレ率も2.5年くらい低いレベルになる。GDPも2.5年くらいの間、0.5%程度低いレベルに落ちた後でだんだん元のレベルに戻っていく。

名目金利が1%上昇するショックが永続的なものであった場合、名目金利は1年程度かけて1%上のレベルに到達し、そこにとどまる。インフレ率は2年くらいかけて1%高いレベルに到達する。つまり、ネオ・フィッシャー効果は1年程度で現れるということである。しかも、インフレ率の上昇は名目金利の上昇に比べて遅いので、GDPは大きく上昇する。推定されたモデルによると、GDPは1.5%くらい上昇し、その効果はかなり長く続く。

著者の解釈に従うと、日本で起こっているのは、金融緩和が永続的に続けられることは、永続的な名目金利引き下げのショックであり、上のグラフと逆の効果(名目金利は低位安定、インフレ率も低位安定、GDPは長期的に停滞)が表れていると解釈できる。

もちろん、これらの効果がどのようにidentifyされているかが重要(僕にはよくわからない)なので、モデルの結果はもちろん鵜呑みにはできないんだけれども、ネオ・フィッシャー効果は本当に短期的に表れうるのか、データから支持されるのかという重要な質問に対して、挑発的な答えを提示した論文として、個人的には好みである。

What Do You Need to Get a Job at U of Tokyo?

仕事の都合上、経済に関する投稿ができないので軽いネタでまた書いてみる。

ある方が、日本で就職先がないから帰れない、というようなことをtwitterに書いていた。全然知らない人だけど、CVを見てみたら、すごい、うらやましい、という感じである。これだったら、日本の大学だったらどこでも帰れるんじゃないかなぁ、と思ったので、試しに、東大の経済学部のFullあるいはAssociateだったらどのくらいの業績があるのか(東大の経済学部にテニュア付きで就職するにはどのくらい必要なのか)、安田さんのリストを使って調べてみた。

東大の経済学部で、専攻がミクロと計量以外で、1990年以降学部卒業(とリストに書いてある)人に限定してみた。ミクロと計量を除いたのは、これらは基準が異なるかもしれないと思ったからで、1990年以降学部卒業の人に限ったのは、時を経て基準が変わってきているかもしれないと思ったからである。それらの人について、安田さんのリストの星の数(5つそれなりのジャーナルにパブリッシュするごとに1つ付くはず)、およびトップ5にパブリッシュしたか(1はトップ5あり、0はなし)、そしてそれらのポイントの単純な合計を出してみた。元のデータは面倒くさくて見ていない。もちろん4つと5つで大きな差が出るのは問題だけど、トップ5がそれなりのジャーナル5本分というのは悪い換算レートではないような気がする。それに、大学院時代に書いたペーパーや、共著者の多いペーパーはディスカウントするという考えもあるし、ペーパーの影響力(≒引用数)も重要なのはもちろんだけれども、そんなことをやっている時間はないので許してほしい。以下がその結果のリストである。ポイントの高い順に並べてある。


就職先がないと言っていた人は1ポイントなので、少なくとも、このポイントシステムだと半数以上の人と同等か上ということになる。おそらく、東大に就職できるのであれば、他のところもいろいろオプションはあるだろうから、アカデミアで就職先が見つからないということではないのだろう。

東大に就職したいならば、トップ5にパブリッシュし、それなりのジャーナルに5本載せれば、それなりに可能性は高いといえるのでは。

On Referee Report

今年の9月に、Econometric Society(ES)の3ジャーナル(ECMA, TE, QE)のエディター連名で、ESのジャーナルにパブリッシュされるペーパーが長くなりすぎているので、短くしていくという意向が表明された(リンクはここ)。このメールによると、Econometricaの平均ページ数は1970年代には12ページだったのが、今はOnline Appendixを除いても36ページになり、50ページを超えるペーパーも多いらしい。確かに、長いペーパーが多くてげんなりすることが多い。ESのエディターとしては、ペーパーの長さを、現在の30-40ページから20-30ページにしたいということである。そのためにも、レフェリーも、あまり多くのことを要求しないでほしい、と書いている。ペーパーが(Appendixも含めて)長くなっている理由の一つは、レフェリーがいろいろな追加の分析、頑健性のチェックを要求する(こともあるし、それに対抗して、これでもかといろいろな分析を最初からペーパーに加えておく)からである。

これと連動して、Econometricaのマクロのエディターから、レポートをこういう風に書いてほしいとの連絡がきた。そのメールには以下のようなことが書いてあった。
  • レポートは必ず6週間以内に提出してほしい。そのかわりに、あなたがサブミットしたペーパーも素早く決定を下す。
  • レポートは (1) ペーパーの要旨、(2) 非常に重要なポイント(Essential Point)、(3) (その他の、ペーパーを改善するための)提案(Suggestion)、の3部構成としてほしい。
  • 「要旨」は今までと同じように書いてほしい。
  • 「非常に重要なポイント」は、この点が改善されればペーパーがトップジャーナルに載る価値があるものになるという点に絞って、3点まであげてほしい。4点以上ある場合は、そのペーパーはリジェクトされるべきだ。あなたの評価がリジェクトであれば、「非常に重要なポイント」はリジェクトを提案する理由が書かれるところとなる。
  • 「提案」は、「非常に重要なポイント」以外の、ペーパーを改善するための提案である。現在のレフェリーレポートはここが80%を占めていると思う(つまり、現在のレポートには本当に重要ではないことがたくさん書かれている)。
  • Econometricaはしばしば「Econometricaらしい」ペーパーがパブリッシュされるところと考えられているが、最高のマクロのペーパーをパブリッシュしたいだけである。AERに載る価値があるとあなたが思うペーパーをEconometricaはパブリッシュしたい。
このメールで提案されているレフェリーレポートの書き方のバックグラウンドペーパーとして、"How to Write an Effective Referee Report and Improve the Scientific Review Process"(by Berk, Harvey, and Hirshleifer, JEP 2017)というペーパーが挙げられていたので、読んでみた。いくつか参考になったポイントを以下にメモしておく。このペーパーは、著者らが、過去のAER、JPE、QJE、ECMA、REStud、JFEのエディターに、経済学のレビュープロセスをどのように改善したらよいかヒアリングした内容をまとめることで構成されている。
  • あるペーパーがパブリッシュに値するかは、(1) そのペーパーが重要な質問に答えているか、(2) そのペーパーが既に分かっている結果から大きく前進しているか、(3) その結果が正しいか、である。レフェリーは(3)に注力しすぎな印象を受ける
  • 若い研究者は、レフェリーしているペーパーをぼろくそに(意訳)批判することで、自分がいかに優れているかを見せつけようとする傾向がある。これ、やるなぁ、と反省している。
  • レフェリーレポートは(ペーパーがアクセプトされるかリジェクトされるかを決める)「非常に重要なポイント」と(それ以外の)「提案」に明確に分けるべきである。(この提案がEconometricaのエディターの方針として採用されている)
  • 「この証明は信じられない」とか「この結果は間違っているような気がする("smell")」とか「結果が直感と異なる」という理由でリジェクトを提案するレフェリーがいるが、レフェリーも説得力のある、論理的な理由をあげなければならない。
  • レフェリーがリバイズを提案するということは、(1) そのペーパーは(問題点が解決されれば)パブリッシュされる価値がある、(2) ただし、今の状態ではいくつか問題がある、(3) これらの問題は解決が可能である、という評価にコミットしたということである。第2ラウンドのレフェリーを行う場合は、そういうコミットをしたということを頭に入れて書かねばならない。例えば、第1ラウンドで指摘しなかった問題を指摘するのは契約違反である。
  • レフェリーが追加的に何かを行うように要請するときには、それを実施するコストを考慮しなければならない。
  • 自分がレフェリーを依頼されたペーパーととても関連している研究をしていて、レフェリーレポートから自分が誰かわかってしまう恐れがあるときは、エディターに相談するべきだ。レフェリーをしないという選択肢もあるし、レフェリーにはならずとも、エディターに個人的にペーパーについての意見を伝えるということもできる。
  • ペーパーの著者と個人的な関係がある場合、自分が競合しているペーパーを書いている場合、もエディターに知らせなければならない。
  • もしペーパーが明らかにジャーナルが求める質よりかなり下のレベルにあるときには、1ページの短いレポートをすぐに返すと、皆の時間の節約になるかもしれない。
  • (エディターだけが見る)カバーレターは、レポートのCopy and Pasteでは意味がないが、レポートと整合的でなければならない。レポートでは素晴らしいペーパーとほめておいて、個人的にリジェクトを勧めるようなレフェリーもいるらしい。カバーレターは次の3点から構成されるのが望ましい。(1) ペーパーの貢献(エディターがペーパーの分野の専門家ではないかもしれないことを考慮すべき)、(2) 分析に説得力があるか?、(3) ペーパーはリジェクトされるべきか、リバイズを要請するか。後者であれば、1回リバイズすればアクセプトされるべきペーパーになるか。
  • (ペーパーが自分の専門とちょっとずれている等の理由で)自分の意見に確信がない場合、その点も明確にするとよい。
  • レポートは簡潔なほうがよい(例えば2-3ページ)。
  • レポートの中のコメントには、参照がしやすいように、すべて番号をつけるべきである。

Against Marxist Economics

まだリハビリモードなので、またしても、とりとめのない雑談を。

最近、東大経済学部がマルクス経済学の教員を採用しないという決定をしたという記事が(発言者の意図が正確に伝わっていなかったようだけれども)流れていた。個人的なことを書くと、僕は、楽に卒業できるし、就職がいいだろうなと思ったからとりあえず東大の文IIに入学したんだけれども、必修のうち半分がマルクス経済学(およびマルクス経済学色の濃い経済史)だったこと、あと「近経」の最初の必修の授業であったミクロ経済学も、理論のみの教科書をそのまんま棒読みで進んでいくだけでむちゃくちゃつまんなかったことから、こんな学部で大学時代の貴重な時間を過ごすのは完全に時間の無駄だと思って転部した経験があるので、明示的な決定ではなくてもマルクス経済学の色が弱まっていく方向に向かっているのは好ましく思う。今はわからないけれども、少なくとも僕の分野でいえば、東大のような、アジアでもトップから遠くはなくて、世界的にもまぁまぁ悪くはない大学で、学生にこのような授業を強制するのはまったく理解できない。

アメリカを見てみても、いわゆる世界で高評価を得ている学校で、マルクス経済学の教員が充実しているところなど、寡聞にして聞いたことがない。日本の大学の近い競争相手であるシンガポール、香港、とかの学校でもマルクス経済学が充実している学校なんてあるのかな(韓国の大学はセミナーとかで訪問行ったことがないので知らないけれども)。アメリカの場合は(ほかの国でもそうだろうとは思うのだけれども)いわゆるヘテロ経済学(マルクス経済学とか、世界システム論とかいったやつ。ヘテロマクロではない)を売りにした学校があるけれども、いわゆるトップスクールでヘテロ経済学を売りにしたところはないと思う。

でも、何でマルクス経済学がトップスクールにあってはいけないのかというと、これは別にどの学問が正しいという話ではなくて、世界のトップの学校の大部分は、世界の最先端の経済学を使い、国際的に認められた学会にアクセプトされ、国際的に認められた(英語の)雑誌にパブリッシュしている人を採用しているので、それに従うと、マルクス経済学の人にはそういう人がいないからだということではないかと思う。いわゆる「ケインジアン」(NKではない)でも、ケインズの解釈学のような古めかしいスタイルで研究している人はトップの大学で採用されるべきではないのと同じ理由である。そもそも、マルクスがこう言っているとか、ケインズがこう言っているとかを重視する、属人的な学問(経済学史も含む)をする人や、いちおう「近経」のようなことをやっているとしても国際的な競争に参加せずに本しか書かない人も、同じ理由で、トップの経済学部にいるべきではない。その一方、「ケインジアン」という人でも、Roger Farmerのように、一流のジャーナルにパブリッシュし続けて、一目置かれている人もいる。経済史でも、なんだかなぁという人も多いが、理論をちゃんとわかっていて、一流のジャーナルにパブリッシュする人は話してて面白いが、そうではない人もたくさんいる。マルクス経済学でもケインジアンでも世界的な評価のスタンダードでみて優れた人があれば、色眼鏡で見ずに、何本どこにパブリッシュしたかで採用すればいいだけの話だと思う。マルクス経済学っぽいことをやっていても、トップ5にパブリッシュして、安田さんのリストで星がいくつかついているような人であれば採用すればいい。

多分、学生へのサービスという観点からみても、(今現在)学生の将来に役に立つのは、物事をモデル(理論)を通してみることができるようになること、相関関係と因果関係の違いをちゃんと認識し、データをどのように処理し、解釈するかを学べること、(そのための)コンピューターの使い方を学べること、英語が使えるようになること、とかであろうから、そういう側面が重視される経済学を研究している教員を積極的に採用していると、自然とマルクス経済学の人は採用されません、ということになるんじゃないのかな。今時、学生でマルクス経済学の授業出て役に立ったなんて言う人がいるのだろうか?

もちろん、世界のトップがこうしてますという理由が常に正しいとは限らない。後から考えてみたら、世界のみんなで間違った方向に進んでいて、将来はどのような分野・研究者がトップの大学に採用されるべきかという面で見直しがなされるかもしれない。ただ、それを理由として、世界のトップの大学で採用されている物差しでは採用に値しない人も「多様性」の観点から採用していこうというのは間違っていると思う。そんなことを言い出したら、誰でもいいということになってしまう。

将来、世界のトップの大学が経済学者を見る基準が変われば、その時に、新しい方向に沿うようにシフトすればいい話である。今現在世界で何が評価されているかを評価基準とするのは危険がもちろんあるが、何か客観的な評価基準に従わないと、ろくなことにならない。いろいろなアプローチをバランスよく学べることは重要だと思うのだけれども、そんなことに気を使ってばかりいるとろくなことにならないと思う。

Nobel and Aiyagari

超久しぶりになるが、ホリデーシーズンで雰囲気ものんびりしているし、リハビリも兼ねて、柔らかいネタで書いてみる。

ノーベル賞が10月14日に発表されて以降、受賞者の業績等についていろいろ見聞きする機会があったが、その騒ぎも収まってきた。自分は特にいろいろな分野をよく知っているわけではないので、自分の分野外の人が受賞したときは、普通の人と同じように、へぇ、と言う感じで終わってしまう。とはいえ、今辺りに、次のノーベル賞は誰かな、という会話がなされることが多い。ちょうどこの時期に、来年の賞の候補者の推薦をお願いするメールが世界中の一流の経済学者に届くからだ。僕には関係のない話だけれども、この時期に一流の学者連中と飲みに行くと、来年は誰がいいかなぁという話になりやすい。

今回は、皆でビールを飲みながら、マクロは次どのような分野かなという話になった。そこで、ヘテロマクロが取れるとしたら3人はどう選べばよいか、という話になった。あるとしてもまだまだ先の話だと思っていたけど、今年の受賞者を考えると、順序とかどうでもいいじゃん、という感じらしい。こういう話になると、残念だなぁと思うのは、アイヤガリが若くして亡くなってしまったことである。彼が入らないと、どのように3人選んでも何か物足りなくなってしまうように感じられる。

といったら、そうでもないんじゃないかという人もいた。ちなみに、今や経済学では、アローやサミュエルソンのような(ルーカスも入るのかな)、いわゆる誰でも知っている巨人のような人は今やいないので(僕なんて今年の受賞者の論文なんて、KremerのQJEのGrowthのペーパーしか読んだことない)、経済学以外の分野のように、大きく発展した分野を選んで、その中で貢献度が大きかった3人を選ぶような感じになっていくのではないか(アイヤガリがいなくてもいける)と言っている人もいた。

この話から続いて、アイヤガリがどのような人だったかというのをいろいろな人から聞いたんだけれども、彼のオフィスはモノが全然机の上に出ていなくてとてもきれいだったらしい。僕も、いつでも次の職に引っ越しできるように、パソコンに入らないモノは全然買わないしオフィスにはモノは残さないし、机の上には何も置かない性格なんだけれども、なんとなく、頭のいい人は机がごちゃごちゃしているといつも思っており、ごちゃごちゃしているのが嫌いな自分としてはちょっと残念に思っているので、自分があこがれる人の机がきれいだと嬉しくなる。ある人は、アイヤガリのオフィスを訪問したところ、机の上に彼の3つのペーパーだけが置いてあり、どのペーパーについて議論したいか選ばされたらしい。かっこいいな。

ほかに聞いた話としては、アイヤガリは、1981年にPhDを取ってからしばらくしてミネアポリス連銀に戻ってきて、1994年の超有名なペーパーをはじめとして一連のペーパーを完成させて、亡くなる直前にロチェスターに移ったんだけれども、ミネアポリス連銀に戻ってくるまでの間、研究で結構苦しんでいたらしい。苦しんでいたといっても僕のような二流経済学者とはレベルが違うんだけれども、これくらいすごい人も苦しんでいたという話を聞くと、自分がいい論文全然かけなくて苦しんでいるのは当たり前だよな思わされる。がんばろう。

SED 2019: Day-Ahead Conference

(特にミネソタ系)マクロで最もレベルの高い学会の一つである、SED (Society of Economic Dynamics)の年次総会が、今年はセントルイスのワシントン大学のキャンパスで行われた。最近は、大きな学会があると、その前日にその町にあるFRBなどがDay-Aheadカンファレンスという学会を開催するのが流行りになっている。今回もやはり、SEDの年次総会の共同スポンサーでもあるセントルイス連銀が、SED開催の前日にDay-Ahead カンファレンスを実施したので、そこで発表されたペーパーについて簡単にメモしておく。

Michele Tertiltの"Regulation of Consumer Credit with Over-Optimistic Borrowers"(Florian Exler, Igor Livshits, James MacGeeとの共著)は、「行動経済学的な」仮定を入れた、ヘテロマクロモデルを使った分析である。消費者には所得が高い確率が高いタイプ(良いタイプ)と低いタイプ(悪いタイプ)の2つのタイプがいるが、どちらのタイプも自分が所得が高いタイプだと思って行動する。もちろん、長期間にわたって所得が低ければ、自分は所得が高い確率の低い(悪い)タイプだと学ぶのが普通であるが、消費者は皆「楽観的」(自分は「良いタイプ」だと考えて行動する)だというのがこのモデルの肝である。この仮定により、悪いタイプが、よいタイプに成りすますことのコストを考えて行動したり、これらの消費者にお金を貸す貸し手がどうやったら良いタイプにだけお金を貸すことができるかと考えるような、難しい問題を解く必要がなくなるからだ。これらの消費者は消費をスムーズにするためにクレジットカード会社からお金を借り、時によっては破産を選択する。クレジットカード会社の方は、お金を貸したときに、どの割合が良いタイプかを知っているが、良いタイプと悪いタイプは全く同じ行動パターンをとるので、2タイプを見分けることはできない。つまり、均衡では両タイプが同じ金利で借りることになる。このようなモデルの均衡では、自分の所得能力について楽観的な(悪い)タイプは、(自分のリスクにも相当した高い金利より)低い金利(低いリスクプレミアム)で借りることができる一方、良いタイプは悪いタイプと混ざっているので、高めの金利でしかお金を借りることができない。このような均衡では、政府が政策によって破産のコストを低くすることができると、実際に破産しがちな悪いタイプは得をするのだけれども、破産をあまりしない良いタイプは、破産が増えることによるリスクプレミアムの上昇で、損をしてしまう。

Maaten Meeuwisが発表した"Belief Disagreement and Portfolio Choice"(Jonathan Parker, Antoinette Schoar, Duncan Simesterとの共著)は、今流行りの、普通には手に入らないデータセットを使った分析である。詳細には立ち入ら(れ)ないが、彼らは、アメリカの数百万人がどのようにポートフォリオを組んでいるかというデータを入手し、彼らのポートフォリオが、2016年11月の大統領選(トランプが僅差でクリントンに勝った)の結果によってどのように変化したかを分析した。彼らのデータではそれぞれの投資家がどちらの政党を支持しているかはわからないが、どこに住んでいるかはわかるので、共和党支持者の多いエリアに住む人と、民主党支持者が多く住んでいるエリアに住んでいる人で、2016年11月の選挙の結果を受けたポートフォリオ組み替え方がどのように違っていたかを見ることができる。彼らのメインの結果は、大統領選での共和党の勝利の後で、共和党支持者の多いエリアに住む人は、民主党支持者が多いエリアに住む人に比べて、より株式への投資割合を増やしたというものである。著者らの解釈は、よく仮定される、全投資家が同じ(合理的)期待を持つという仮定よりも、皆が異なるモデル(に基づいて将来の資産のリターンを計算している)を持つという仮定が支持された、というものである。

S. Boragan Aruobaの"Pure Wealth Effect or Credit Constraints? Decomposing the Response of Consumption to House Prices"(Ronel Elul, Sebnem Kalemil-Ozcanとの共著)は、アメリカでGreat Recessionの時に住宅価格が下がったことで、消費が落ち込んだというMian-Sufiの有名な結果を、さらにいいデータを使ってより詳細に見てみたペーパーである。住宅価格が下がると消費が落ち込むというのは、理論的には十分あり得ることだが、その主なチャンネルは2つある。1つは「資産効果チャンネル」である。自分がもっている資産の価値が下がったことで、将来それを取り崩して実行できる消費額が下がるので、それに合わせて現在の消費を減らすというものである。もう1つは、「借入制約チャンネル」である。住宅価格が下がるとその価値を担保に借りれる金額が低くなるので、お金を借りて消費に回していた家計は消費を切り詰めざるを得なくなる。このペーパーでは、Great Recessionにおいてこの2つのチャンネルがそれぞれどのくらい強かったかを調べてみた。基本的なアイデアは、クレジットスコアの低い(高い)家計の住宅価格の下落に対する消費の反応は、借入制約チャンネル(資産効果チャンネル)によるものだろうと仮定することである。彼らの分析の結果は、Great Recession時における消費の下落のうち、資産効果によるものはほぼゼロ、借入制約チャンネルによるものが70%ほど、金融機関のバランスシートが痛んだことで貸し出しが制限された効果は20%ほど、残りの10%程度は一般均衡効果(消費の低迷に合わせて雇用が減少して所得がさらに減少することによる消費の減少)というもの。

Tim Landvoigtの"Financial Fragility with SAM?"(Daniel Greenwald, Stjin Van Nieuwerburghとの共著)では、SAM(Shared Application Mortgage)という新しいタイプのモーゲージ(住宅ローン)をマクロモデルの中で分析している。SAMというのは、住宅価格が下がった(上がった)ときには、モーゲージの支払額も下げる(上げる)という形態のモーゲージで、住宅価格が下落したときには自動的に支払額を引き下げることによって、(不況で失業するなどして所得が下がってモーゲージの支払いが困難になって)デフォルトに陥る人の数を減らそうというアイデアである。僕は全然知らなかったが、こういうモーゲージを提供しているフィンテック会社がすでにあるらしい。彼らのモデルはとても複雑なので、詳細には全然立ち入ら(れ)ないが、彼らは、モーゲージの支払額を国全体の住宅価格の動きに合わせて調整するSAMと、モーゲージを借りている人が住む地域の住宅価格に合わせてモーゲージの支払額を調整するタイプのSAMの効果を分析した。彼らのシミュレーションによると、経済全体に前者が導入された場合、基本的には景気変動のリスクをより金融機関に負担させることになるので、金融機関のバランスシートが景気の動きに対して敏感になりすぎてしまい、金融セクターの危機の頻度が増えてしまう。その一方、後者の場合、金融機関が各地域の住宅価格変動のリスクをシェアすることができていれば、住宅価格変動のリスクを別の地域に住んでモーゲージを持っている人々の間でシェアすることになるので、好ましいという結果になった。

Fabrizio Perriの"Unequal Growth"(Francesco Lippiとの共著)は、アメリカでは過去40年程度の間に、個々人の所得の不平等度が上昇し、同時に、経済全体の成長率が低下してきたが、これらの間の関係を、PSID(1967年から個々の家計の所得が見られるデータ)を使ってちょっと深く見てみたという論文。具体的には、次の関係に注目した:

  • ⓪経済全体の成長率=①個々の家計の所得の成長率の平均(個々の家計の所得のレベルでウェイト付けされていないもの)+②個々の家計の所得のレベルと所得の成長率の相関(×それぞれのばらつき具合)。

直感的に説明すると、個々の家計の所得の増加率が同じであれば、経済全体の成長率は①と等しくなる(②はゼロになる)。個々の家計の所得の成長率が異なる場合、もし、所得が高い家計の方が所得の伸びば大きければ、経済全体の成長率は①より大きくなる。経済全体の成長率を計算するにあたっては所得のレベルでウェイト付けするので、所得が高い家計の所得成長率が高ければ、経済全体の成長率は高くなるからだ。このような分解の方法はOI(Olley and Pakesなど)で頻繁に使われているらしい。彼らの分析によると、過去40年で、①は特に1990年以降上昇傾向にある。しかし、②は常にマイナス(所得のレベルが高い人の所得成長率は比較的低い)だが、そのマイナス度合いが特に1990年以降高まった。1990年以降②の低下のスピードが①の上昇のスピードを上回っていたことで、経済全体の成長率が低下したというのが彼らの発見である。②のマイナス具合がさらに低下したというのは、所得が高い人の所得成長率がさらに低下したことと、所得が低い人の所得成長率がさらに高まった、ことの両方によるもののようだ。彼らのペーパーでは、この後、モデルを使った分析もなされているが、メカニカルな分析で、では、なぜこのような変化が起きているのかはわからない。とはいえ、こういう分解による分析もできるんだなぁという感じ。

最後に、Mariacristina De Nardiの"The Lost Ones: The Opportunities and Outcomes of Non-College Educated Americans Born in the 1960s"(Margherita BorellaとFang Yangとの共著)では1960年代に生まれた、大学に行っていない白人のアメリカ人は、1940年代に生まれた人たちに比べて、①平均寿命が短く、②医療費が高く、③(教育の度合いをコントロールした後の)平均的に賃金が低い(特に男性)。これらの要因によって、1960年代に生まれた白人アメリカ人は、1940年代に生まれた人たちに比べて、どのくらい「幸福度」が下がっているかを、上の①~③を外生的な変化とするライフサイクルモデルを用いて計算した。彼らのモデルによると、1960年代生まれで、大学に行っていない、白人のシングルの男性は1940年代に生まれた場合に比べて、生涯賃金の12.5%損をしていることがわかった。1960年代生まれのシングルの女性の場合はこの割合は7.2%、カップルの場合は8%だった。