Theory as a Benchmark

今年もノーベル賞が決まったようだ。特に経済学全体についてよく知っているわけでもないマクロ経済学研究者には、コメントする余地もないのだけれども、ちょっと関連することを書いておく。

(マクロ)経済学で広く知られている結果(理論といっていいのかな)というのは、大体が、ある仮定の元においてのみ成り立つものである。バーロ・リカードの等価定理、効率市場仮説、最適なフリードマンルール、最適な資産非課税、といった結果は、それぞれ(ものによっては窮屈な)仮定の下でのみ成り立つ結果である。では、これらの結果がよって立つ仮定が成立していないからといってこれらの結果は役に立たないかというとそんなことはない。これらの結果は、ベンチマークとしての役割が重要である。つまり、これらの結果が成り立たないのはなぜかを教えてくれもするのである。

摩擦がない状態で物がどのように動くかを知っても、現実に物がどのように動くかについて直接的に教えてくれるわけではないけれども、ある仮定の下での物の動き方がわかることで、では、その仮定が成り立たないときにはどのように動くかについて考えるための出発点を提供してくれるのである。

話しを経済学に戻すと、例えば、経済学者があるモデルにおいて、フリードマンルールが最適だという論文を書いたからといって、その経済学者は、「(ある国において)フリードマンルールを実施すべきだ」と主張しているわけではない。こういう論文を書いた学者が、別の論文では、フリードマンルールが最適ではないという結果を導いているような例はいくらでもあると思う。こういう学者は別に、「あっちとこっちで別のことを言っている」わけではなく、それぞれ異なる環境の下における最適な金融政策を述べているだけである。

大体、新古典派的なアプローチのモデルを作る人はフリードマンルールが最適なモデルに行き着くことが多いものの、そのような人と話すと、個人としては正のインフレ率が現実としては最適だろうという人もいて、 驚かされることも多い。その一方、同じようなモデルを作る人で、日本の最近の状況は最適だと主張する人ももちろんいる。

難しいのは、たぶん多くの学者はこのように、ある結果を主張するために論文を書いているわけではないと思うが、ある結果を信じてそれを主張する論文ばかり書いている人もいるので、この2つのタイプの見極めが難しいこと、特に素人さんは、たぶん無意識的に(意識的だとたちが悪い)両者を混同して、ある有名な結果を導いた論文がある学者はその結果を信じていると考えがちなこと、だと思う。

FamaとShillerが互いに矛盾することを主張していて、相反する両方が学会では正しいとみなされているなんてことはたぶんなくて、それぞれの結果はある仮定の元に成り立つものであり、両者同時に正しいということは十分にありえるのだと思う。

このことは、経済学の訓練をつんでいない人が経済学の結果を解釈するときの危険性とつながっている。ある結果が成り立つ過程をちゃんと理解できないと、仮定を無視して結果だけを一人歩きさせることになりうる。

それに、経済学者が現実の政策にかかわる際の難しさも関連していると思う。現実というのは一つの理論で説明できるような簡単なものではないので、実際の政策を考えるときには、互いに独立の理論を比較考慮する能力が必要になる。優秀な経済学者でもこのような能力に欠ける人もいれば、経済学をきちんと学んでいなかったり、たいした学者ではなくても、このようなバランス感覚に優れた人もいると思う。このようなバランス感覚に優れた人が日本の政策に影響を与える存在となって欲しいものである。

取り止めがないがこの辺で。

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