How to Think about Optimal Policy in Macro?

今回は、現代のマクロ経済学者が、最適な政策・採るべき政策を考える時にどのような手法を使うのかを紹介してみようと思う。「マクロ」経済学者と書いたのは、おそらくは、このような考え方を受け入れられない、経済学者もいるはずだからだ(後で少し触れる)。ちゃんとした(マクロ)経済学者が、政府が取るべき政策について議論するときにどのように考えているのか、あるいは、ちゃんとしてない人は何がまずい(と少なくとも僕が思っているのか)がわかってもらえれば幸いである。今回はちょっと抽象的に議論して、気が向いたら、次回は、ちょっとしたモデルを組んで具体的な例を示すことをやるかもしれない(こういうことを書いても大体やらずに終わるんだけれども…)。



マクロ経済学者が望ましい政策について考えるときには、モデルをもとに、上のようなグラフを頭に描いている。x軸(Policy variable=政策変数)は政府が選べる政策である。具体的には、消費税率、あるいは最低賃金の水準を頭に思い描いてもらえばよい。今は最低賃金としておこう。y軸(Social welfare)は、大まかに言って「社会全体の幸福度」を示している。具体例で考えてみよう。上のグラフは最低賃金をいろいろな水準に変えたときに、社会全体の幸福度がどのように変化するかを示している。幸福度の変化はは山なりの曲線であらわされ、最低賃金がw1のときに社会全体の幸福度が最大化されている。あるいは、もし現在の最低賃金がw1より低ければ、(w1を超えない程度に)最低賃金を引き上げると社会全体の幸福度が高まるので、この場合は、モデルをもとに、最低賃金を(w1を超えない程度に)引き上げるべきだとマクロ経済学者は主張する。

もちろん、上のような考え方は、様々な仮定の元に成り立っている。まずは「Policy variable=政策変数」についていくつかコメントしておこう。

  1. 上の例は政策変数が一つの場合だが、もちろん政策変数が一つである必要はない。消費税の例で言えば、消費税率と軽減税率(軽減税率=消費税率のケースは軽減税率がないケースと考えられる)の二つが政策変数となってもよい。一般的に、何を政策変数とすべきかについて、いい答えはない。なるべく一般的な議論をするために、政策変数として何でも含める(なんでも政策変数というモデルにおいて最適な政策を考える)という考え方をする人は多いが、この場合、分析が複雑になるし、望ましい政策がとっても複雑で事実上実現不可能かもしれないので、必ずしも一般的であればよいというわけではない。
  2. その一方、まずは消費税率だけ考えて、軽減税率のことは忘れようという考え方もできる。その場合、望ましい消費税率を求めたとしても、その結果はロバスト(頑健)でないことが往々にありうる。消費税の例を使うと、消費税率だけ考えて望ましい消費税率を算出したとしても、軽減税率を導入すると望ましい消費税率は大きく変化するかもしれない。実際に軽減税率は政策変数として使われる(消費税を導入している国の僕が知る限り全てで軽減税率が導入されている)ので、消費税率だけ考えて望ましい政策を考えても事実上役に立たないともいえる。
  3. もっと根本的な話をすると、望ましい政策はモデルの選択に依存する。どんなモデルを元に議論をしているのかを明らかにするのが望ましい。そうすることによって、その経済学者が望ましい政策を考えるに当たって、どういう要素を重視しているか、あるいはどういう要素が考えられていないか、が明らかになるからである。そういう手続きを経ずに、「こういう政策が望ましい」とか「こういう政策が実施されるべきだ」とか言われても信用できない。
  4. 関連した話になるが、ある経済学者がある論文において最適な政策はこれこれだと主張しているとしても、多くの場合、それは、あるモデルの中で最適な政策を分析しているだけであって、通常の場合経済学者自身の価値判断は含まれていない。経済学者でも、あるアジェンダがあってそれに沿う論文ばかり書いている人もいて、その場合は、その論文の結果がその経済学者の主張と一致することが多いが、それは論文の外の情報(その経済学者の評判)からわかることであり、論文自体は、様々な要素が入ったモデルが正しいとすると、モデルの中ではある政策が望ましい、といっているだけである。論文の結果と経済学者の意見をごっちゃにしてはいけないと思う。論文の評価もそれを書いた経済学者の個人的な価値判断とは関係ない。
  5. それと、しばしば、新しいモデルを構築した場合、そのモデルの中で最適な政策を分析することは、実際にそのモデルを使って政策提言する気がなくても面白い分析となる。たとえば、金融政策が入ったモデルで、フリードマンルール(実質金利と同じ率のデフレを起こしつづける経済政策)が最適かどうかを知ることは、そのモデルにおいて貨幣がどのような役割を果たしているかを学ぶのに役立つ。そういった動機で最適政策を分析しているケースも多々あるので、そういう論文を書いている学者がいても、その論文での最適な政策をその経済学者が望ましいと思っていると思わないように注意すべきである。
  6. 上のようなことを書いたのは、結局、各論文は複雑な現実の一部分を切り取ってあるチャンネルを中心に分析したものであり、最終的には、ある国がおかれた経済状況や、その経済状況において重要と思われる様々なチャンネルを比較した結果として、望ましい政策が提案されるはずだからだ。
では、次に、「社会全体の幸福度=Social welfare」についてコメントしておこう。まず、「社会全体の幸福度」というのは何だろう?日本に国民がN人いるとして、わかりやすい例としては、以下のようなものが考えられる。

「社会全体の幸福度」=国民1の幸福度+国民2の幸福度....+国民Nの幸福度

この考え方は広く使われていると思うが、いろいろ問題点があり、リーズナブルではないと思う人も多い。上のような「社会全体の幸福度」の考え方についていくつか注釈を加えておこう。
  1. 最初に言っておかなければならないのは、「社会全体の幸福度」をどう設定するかというのは、経済学の「外」の問題ということである。経済学が得意とするのは、「社会全体の幸福度」が与えられたときに、いろいろな政策を使って、それをどう高めるかを考えることであって、「社会全体の幸福度」をどう選ぶかは、経済学の問題ではないと考える人が多い。極端な話、「正社員として働く人だけの幸福度の合計」と定義しても良いし、「東北地方の農家の幸福度の合計」と定義しても良い。もちろん、こういう定義がリーズナブルだろうという考えはあるけれども(このポストの議論は、一般的にこれがリーズナブルだろうと考えられている手儀に従って進めている)、どの定義を使うべきかというのは狭義の経済学の問題ではない。
  2. では、上の定義に戻ろう。最も大きな問題は国民一人ひとりの幸福度を足し合わせられるのかということである。国民一人ひとりの幸福度を直接比較できないのであれば、足し合わせることはできない。足し合わせる(あるいは幸福度を比較する)ことは不可能だという立場をとるとしたら、上の議論は成り立たない。では、その場合でも、とるべき政策について主張できるのはどのような場合か?全ての国民の幸福度が上昇(あるいは少なくとも同じ)場合である。誰でも、何もせずにお金をもらえれば幸福度がアップすると考えよう(この仮定はそんなにむちゃでないだろう)。その場合、ある政策を実施して、全ての国民が何もせずにお金をもらえる場合、国民1人ひとりの幸福度の直接の比較ができなくても、その政策は望ましいものとなる。これが、大雑把に言うと、「パレート効率性」あるいは「パレート改善」というものである。
  3. 国民一人ひとりの幸福度が比較できたり、足したりできるというのはある意味とても強い仮定なので、それなしに望ましい政策について語れるというのは大きな利点である。しかし、そのような状況でしか政策を語らないということであれば、推薦できる政策はとても限られてくるであろう。例えば、二人しかいない国で、ある政策を実施したときに国民1は100万円得して、国民2は10万円損をするのであれば、うまく国民1から10万円以上とって国民2に上げることができれば、両方とも幸福度が上がる(あるいは最低限幸福度は変らない)政策なので望ましいといえるが、そんな簡単にある国民から別の国民にお金を動かすことはできないかもしれない。そういうことが容易にできるモデルではそのような政策は望ましいものであるが、実際の経済ではお金を容易に移すことができないという制約があれば、そのような政策も実施できない。結局、望ましいとして薦めることのできる政策は、全ての国民が、お金の移転なしに得をする政策でなければならない。これはとてもハードルが高い。こういう政策だけを認めるということにすると、結局、政策について何もいえない状況になることが容易に考えられる。かなりきびしい条件の下で望ましい政策だけ語り、ほとんどのケースにおいて望ましい政策について語ることができないことを選ぶか、もっとルースな条件で望ましい政策を語るけれども、多くのケースにおいて望ましい政策について語ることを選ぶかというのは、とても悩ましい選択だ。ここでは後者の立場をとっている。
  4. それに、もし、本当に、全ての国民が幸せになる政策であれば、なぜそれが実現していないか?という問題も存在する。とても経済学者的な考え方だけれども、誰もが喜ぶような政策であれば、既に実施されているはずだろう、もし、あるモデルに基づいて、全ての国民の幸福度が上昇する政策が存在し、それが実施されていなかったら、そのモデルが間違っているか、そういう政策が実施できない何らかの制約が存在する可能性が高いという考え方もできる。

というわけで、以降は、国民一人ひとりの幸福度は足し合わせられると考えていこう。では、一人ひとりの幸福度はどのような特徴を持っているだろう。おそらくは、(特徴①)持っているお金が多ければより幸福度が高まるというのは、受け入れられるであろう。また、(特徴②)全然お金を持っていない人にとっての1万円は大金持ちにとっての1万円より幸福度を高めるというのも、おそらくは受け入れられる特徴であろう。僕が一万円拾えばとてもうれしいけれども、多分ザッカーバーグはあんまりうれしくないだろう。

この特徴②はとても重要である。特徴②を受け入れる場合、たくさんのお金を持っている人からあまりお金を持っていない人にお金が動く政策は社会全体の幸福度を高める効果がある。ザッカーバーグから1万円余計に徴税し、僕には1万円減税する政策は、僕とザッカーバーグの幸福度の和を大きくするのである。つまり、経済を「公平」に近づける政策は社会全体の幸福度にとって望ましいといえる。

その一方、経済の「効率」を高める政策は、一般的に、平均的に国民の収入を高める効果を持つ。特徴①を受け入れるとすると、経済の効率を高める政策は社会全体の幸福度を高めることとなる。これは良くあることなんだけれども、もし、経済の「効率」を高めようとすると「公平」の面で悪化する場合、どちらかを追求するとその方面から社会全体の幸福度は増加するものの、もう一方の方から社会全体の幸福度が低下することが十分ありうる。この場合、社会全体の幸福度を最大化する政策というのは、「効率」と「公平」のバランスをうまくとる政策ということになる。これが、いわゆる「効率」と「公平」のトレードオフというものである。



上のグラフは、「Efficiency=効率」だけ考えた場合、あるいは「Equality=公平」だけ考えた場合、「社会全体の幸福度」がどのように政策変数とともに変化するかを示している。イメージを沸きやすくするために、政策変数を消費税率と考えてみよう。政府はある一定金額を国民から徴税せねばならず、徴税方法として消費税と累進所得税があるとする。消費税率を上げると、消費税から得られる税収が増えるので、所得税率を下げることができる。この場合、累進性の度合いは維持されると仮定する。上のグラフは、「効率」だけ考えると、消費税率を上げればあげるほど社会全体の幸福度は上がることを示している。消費税はモノの税込価格を一律に引き上げるので、モノの相対価格を変えない。よって、消費者は(モノの相対)価格が何も変らなかったように行動する。言い方を変えると、消費税というのは価格のゆがみをもたらさないのである。一方、消費税率を高めると所得税率を下げることができ、所得税引き後の所得を高めるので、労働の意欲を高めることが期待される。つまり、消費税率を上げると、消費税は価格のゆがみをもたらさず、一方所得税率を下げることで賃金のゆがみを是正することができるので、経済の「効率」は改善するのである。

その一方、消費税率を高めると「公平」という面だけ考えると、「社会全体の幸福度」は下がってしまう。よく言われていることであるが、定率の消費税は低所得者、つまり「1万円から得られる幸福度が高い」人の税負担が大きくなり、「1万円から得られる幸福度低い」人の税負担が小さくなるので、「公平」の面だけ考えると望ましくないのである。そういう意味では、軽減税率というのは、このような消費税率の問題点を和らげる政策と考えることもできる(もちろん他の政策、たとえば所得税の累進性の引き上げ、で代替することも十分可能である。何を政策変数とするかによって望ましい政策が変わってくるいい例である)。

最初に示したグラフは、上の二つのグラフ(「効率」だけのものと「公平」だけのもの)を足し合わせた結果、山なりになっているのである。但し、このような山なりの形がいつも得られるわけではない。極端な例として、代表的個人のモデルを考えてみよう。国民が1人しかいない(全員が同じ所得等を持つと)経済では、仮定から既に「公平」は達成されているので、「公平」を改善するとという効果はないのである。言い方を変えると、代表的個人のモデルで考えると、上のグラフで言う「効率」だけ考慮したケースがそのままモデルに当てはまる。つまり、消費税は上げられるだけ上げた方がいいのである。


では、ちょっと違う例を見てみよう。例としてまた最低賃金を使う。上のグラフで言う、Case 1は一番最初のグラフで示した例である。では、Case 2の場合はどうか?Case 2も山なりであり、最低賃金がw2のときに社会全体の幸福度は最大化されるので、マクロ経済学者はCase 1と同じように、最低賃金の引き上げを主張すると考えるかもしれない。しかし、Case 1 との大きな違いは、最低賃金を変えたことによる社会全体の幸福度の上昇幅が小さいことだ。この場合、分析に使われたモデルで捨象された他の要素も考慮した場合、最も望ましい最低賃金のレベルが変る可能性が大いに存在する。このような場合には、マクロ経済学者はあまり強く政策の変更を主張しないであろう。どんなモデルも捨象されたいろいろな要素が存在するし、上のようなグラフを描くために使用したパラメーターにも不確実性がある(あまり自信がない)ケースが多いので、捨象された要素を加えたり、ちょっとパラメーターを変えたら、採るべき政策が大きく変ってくるのであれば、無責任にある政策(w2)を推奨はできない。Case 3は上でもちょっと触れた特殊なケースで、最低賃金が低ければ低いほど、社会全体の幸福度が高まるケースである。言い換えると、このモデルが正しければ、経済学者は最低賃金は廃止すべきだ(廃止したときに社会全体の幸福度が最高となる)と主張することになる。

最後にいくつかコメントを。
  1. 繰り返しになるが、ちゃんとした経済学者であれば、頭の中にモデルがあって、そのモデルの下で、上のグラフのような分析をした上で、望ましい経済政策について議論しているということである。しばしばインターネット上で見かけるが、何のモデル、トレードオフも念頭になく、こういう政策を採るべきだと議論している人がいるが、多くの場合、そんなのは別に望ましい政策を議論していると言うより、個人の嗜好を表明しているに過ぎない。
  2. わかりやすい例としては、ある業界に利益のある人が、少なくともその業界の人は得をする政策を望ましいと議論したところで、それ以外の人たちがどのような影響を受けるか、もしそれ以外の人が負の影響を受けるのであれば、負の影響が、その業界の人が得る恩恵に比べたら小さい、という議論をしないと、(少なくとも僕には)説得力はない。大金持ちではない人が大金持ちに対する課税を強化して、それ以外の人に対しては減税をすべきだと主張するのも似たような話である。もちろん後者の場合、「公平」を改善する効果があるから「社会全体の幸福度」が高まる可能性はあるが、大金持ちの人たちが、投資を控えたり、シンガポールや香港に資産を移したりすることで起こりうる負の効果も冷静に考えた上での議論でなければ、自分が得するからうれしい政策に対する支持を表明しているだけで、あまり説得力はないであろう。
  3. モデルがあった上で議論をしていても、望ましい政策は、結局はどのようなモデルを使っているか、どのようなパラメーターを考えているかに依存することが多い。全てのモデルにおいて成り立つ望ましい政策なんてほぼ存在しないので、望ましい政策を議論する際には、どのようなモデルを考えているか・どのようなチャンネルを考慮しているのかなどを明示した上で議論が行われると建設的な議論になると思う。
かなり、大雑把な議論をしている箇所もあるし、あまり推敲せずに書いたので、おかしいところとかは指摘してもらえるとうれしい。

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