Research Economists and Policy Discussion

@JS_Ecoha さんが、日本の経済学者の政策論争への関わり方についての日経大機小機を載せてくれていた(リンク)。そこでは、例えば、クルーグマンのような世界的に有名な学者が「消費税増税を急がなくても日本の財政には問題がない」と言った時に、日本(人)の経済学者からの反応がないこと、その理由としては、今の日本の経済学部はアカデミックな業績が重視されており、反論したところでアカデミックな業績にはならないことが挙げられていた。そして、もっと積極的に政策論争に参加するインセンティブを与えるために、アカデミックな論文だけで業績が測られる現状を変更した方がよいのではという提言で結ばれていた。これについていくつか思うところを書いてみる。

アカデミックな業績のある経済学者があまり政策論争に積極的でないとしたらそこにはいくつか根本的な理由があると思う。いくつか挙げておこう。

1つ目は、ある政策に様々な効果があるとすると、その様々な効果は大体において別々の論文で分析される。そうしないと論文はシャープにならないからだ。いろいろな効果があってその効果がいろいろな論文で別々に分析されている場合、それらの別々の効果にどれくらいの重要性を置くかは個人の「感覚」によるところが多い。それに、ある論文で計られた効果は、何かの前提におそらくは大きく依存しており、その前提を(どの程度)受け入れるか否かは、読む人によって異なると思う。加えて、多くの論文はアメリカ経済を前提に書かれているので、アメリカの結果を日本の状況でどのように微調整するかということも考えなければならない。クルーグマンのような人は、そこまで考えているはずである。そこで、クルーグマンのような人が、ある効果がより重要だと考えてある結果にたどり着いた場合、例えば僕のような何でもない人が、彼が重視していない別の効果は実はとても重要だと言いたかったり、日本においてはある結果は当てはまらないと議論したい場合、かなりの研究が必要になる。そして、そんなことやっても大したペーパーにはならないし、頑張ってやったとしても、多分クリアカットな結論が出ない場合も多いので、その場合クルーグマンはあっちの方が重要だと言っているのを信じている人の心を変えるのは本当に難しい。そんなことやってられない。

2つ目は、結局は、どの政策が「正しい」かは、結局どのような社会全体の幸福度を仮定するかによることが多く、その場合は、経済学者が出る幕ではないというのが挙げられる。社会の個々の構成員の幸福度をどのようにウェイト付けするかは第一義的には政治の(政治家が決める)問題である。こういう状況である政策が「正しい」と言っている人がいる場合、それは単に個人(論文を書いた人や意見を表明している人)の嗜好の表明に過ぎないことがほとんどだ。そのような状況で、例えば僕の仮定する社会の幸福度とクルーグマンのものが異なるとしたら、勝ち目があるわけがない。それに、政府とすれば、こういう状況で政府がやりたい政策を「正しい」と言ってくれる学者を重用したくなるはずなので、自分の考えが政府が欲しい結論と異なる場合、時間の無駄である。そんなことやってられない。

3つ目は、そもそも、経済学者が何か言ったところで、それが実際の政策に影響を与えるかというと、たぶん日本政府はそういう感じではないので、結局、無駄骨になるように感じる。日本銀行の政策委員なり、政府の審議会の委員なりをみれば、まぁ、ちゃんとした議論の結果政策に影響を与えられるような状況ではないような感じがする。そんな状況で政策論争なんかに時間を割いてはいられない。

では、最初に引用した大機小機で言っているように、政策に関与することも業績としてカウントするというアイデアはどうか?個人的にはいいアイデアだとは思えない。この場合、それぞれのジャーナルの価値が国際的に確立されているアカデミックな業績と、政策関連の業績との為替レートを決めなければならないのだけれども、政策関連の業績の価格が高すぎて今のようにアカデミックな業績はいまいちだけど政策について何か書く人が優遇されてしまうリスクが高すぎると思う。特に、政策関連の業績の価格が調整されるマーケットがない場合、政府によってその価格が高めに設定されて、今のように、大した業績はないけど政策について「分析」している人が高めに評価されてしまうリスクを恐れるべきだと思う。

アカデミックな論文だけが業績にカウントされるシステムがだんだん根付いてきているのは素晴らしいと思う(もちろんそういう状況に身を置いているのでポジショントークととってもらってよい)。個人的には、今でも、ちゃんとした業績もないのにいい職を得ている経済学者が多すぎると思う。マスコミに出ている人とか、本ばかり書いている人とか、業績はいまいちだけど政府に重用される人とかがまだまだ多すぎると思う。方向性としてはアカデミックな業績を重視する方向にだんだん向かっているので、そういう人が少なくなっていくのは時間の問題だと思う。日本の政策の議論に関連する研究があまり評価されない結果、その量が過少になるかもしれないという問題はあるものの、きちんとしたアカデミックな業績のある人が評価されるべきだと思う。きちんと国際的に評価される業績があって、説得力を持ってクルーグマンのような人に反論できる人でないと政策関連の議論をしてもしょうがない。

個人的には、政策関連の議論を活発にするためには、回りくどいやり方かもしれないけれども、以下のようなことが重要だと思う。
  1. データの整備。いいデータがあれば自然と論文も出てくる。アメリカやヨーロッパはもとより、例えば、今では、ブラジルとかも日本よりいいデータが誰でも使えるように提供されており、それを使って論文を書いている一線級の学者がいる。政府は、データを使いやすくするとともに、(ちゃんとした)経済学者に、どのようなデータがあれば、政府が必要とするような研究がより活発になるかを聞くべきだと思う。
  2. アメリカのCEA(大統領諮問委員会)のように、いろいろなキャリアのステージの経済学者を2年とかいうタームで雇ってもよい。
  3. マスコミが、ちゃんとした研究に、もっと注意を払うべきだと思う。消費税なり社会保障なりの分野は、今でも新しい論文が書かれているが、そういう新しい論文に注目したような記事はあまり見ない。
  4. 日本の経済学ジャーナルも、あるトピックで特集をしたり、あるトピックの学会を開いてConference Volumeを出したりすれば、政策に貢献できるかもしれない。アメリカでいえばJMEのCarnegie-Rochester(JMEがあるトピックの論文を募集して、学会を開き、その学会で発表された論文とその論文へのコメントがJMEに載る)やBrookingsの出版物(Brookings Institutionによる似たようなシステム)である。JMEとまではいかなくても、論文にできるとなれば、日本の政策論争にちょっとだけでも貢献したいと思っている人もいるのではないかと思うんだけれども。

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